せかうな

世界で一番うなぎがうまい

センスとしての静香の存在の実益と弊害について ワールドダイスター

ワールドダイスターに対して思っているモヤモヤなメモをまとめたいなと思っていた時に、絶好の良記事が公開されたので流れをお借りしてまとめた。

anime197166.hatenablog.com

二人いることの実益

第七場の柊さんのモノローグでこの分業が可能であること(ここなと静香にとって適切であること)を理解して説明している部分がある。

静香はここなにとっての理想の役者像、あとはその姿に近づくために汗を流すだけ。 そのために三ヶ月間ここなに基礎を叩き込んだ。色々な役を演じさせ経験も積ませた。

ここなに対しては筋トレや歌やダンスのレッスンのような基礎練習と、沢山の種類の役を演じさせるバリエーションの練習のみをさせている。一方で眼前の役の理解、いわゆる役作りは完全に静香に任せている。

更に端的にここなのもつセンスを説明しているのが以下のモノローグである。

役の感情を正確に引き出す理解力、それを観客に伝える高い表現力、二人一役で理想の演技を体現する

言っていることは同じで、前者は静香の分担である理想を作り上げること、後者はここなの分担である理想に限りなく近づけるだけの身体性を発揮することが求められている。

技術論だけで言えば、本来一人でやることを分担してかつ並列に実施できることがここなのセンスの本質であり強みと言える。

言葉で説明しているのは第七場の柊さんだが、第六場で複数のアラジン(アラビアンナイトの台本)と向き合っている静香のシーンでもわかるように自然とその分業はなされていたことではある。

二人になってしまったことの弊害:「静香」の分離

これに関しては少し考えに飛躍が入っているかもしれないので少し注意しておく。 静香が最終的には一つになるべきであると考え始めたのは第十場で、静香の演技プランと異なる演技プランの提案がここなからあったことに起因している。静香は驚きの表情を見せるものの、ここな自身の考えを尊重すべきであるという結論を提示する。そしてどこか寂しげに以下のセリフを語る。

役作り、一人でできるようになったんだ。

その状況に加えてカトリナの演技を見たことをきっかけに、このままではここなは役を勝ち取れないというその想いに拍車がかかる。結局なぜ静香が消えるべきかと思ってしまうに至ったかというと、おそらく静香が少し勝ち気であるとか理想を追い求めがちという性格の本質は、ここなから同様のそれを奪うこと(抱えきれなくなった気持ちの拠り所の具現化)で自身が存在していると気がついてしまったからであろうと思っている。

その気持を忘れないで。だから、返すねこの気持ち。

返すねという言葉からもわかるように、元々はここなが持つべきものであるという考えに至っていて、同時にオーディションで役を勝ち取るための重要なピースであることを示唆している。静香はここなの迷いは自分が自分として存在していることが根本的な原因だと考えた(考えてしまった)。

さいごに:これからの静香について

ただ第十一場の一連のシーンで泣かせるのはその前の静香の感情をあらわにしたセリフである。 文脈的にはここなの気持ちを代弁しているのだけれど、その鬼気迫る感情は静香としての強い想いが乗せられていることが感じ取れる。

舞台に立ちたい、いい役が欲しい、誰よりも輝きたい、他の役者を蹴落としてでも、私のほうが絶対に演技は完璧だったはず、私が一番舞台に立ちたい、なのにどうして誰も私を理解しない。

既に別人格として確立された静香は単にここなのセンスという存在を超越して個としての存在感や感情を持ち始めているので、最後の「どうして誰も私を理解しない」などは静香単体としての感情のほうが大きいと受け取れるくらいの気迫だった。

結局最後に静香はここなの手によって戻ってくる。なんともハッピーな結末じゃないか。

柊さんは第七場の段階で「きっと静香は演じる役に溶け込むのが異様に上手いのね」と静香の役者としての評価をしてくれている。弊害の節でも引用した、静香の「役作り、一人でできるようになったんだ。」は見方によっては、まるで静香の存在意義がなくなってしまったかのように寂しく感じる。ただ、裏を返せばここなの一機能としての静香の役割からの開放とも考えられる。ここなの成長は即ち、静香の個の確立に繋がっている。第十一場ではある意味爆発的な「感情」をここなに思い出させるために一つになることが局所的な最適解だったのかもしれないけれど、この先、個としての静香の成長が静香自身、そしてここなにどのような変化を与えていくのかがとても楽しみでならない。

world-dai-star.com